『あわのまにまに』が山本周五郎賞の候補に選ばれました
くさっている。なにやらとにかくわからんがくさっている。四月のなかばあたりがとくにやばくて、友人の作家や編集者と飲むたびに愚痴りまくっていたら、「新刊が三刷になって山周賞の候補にもなってなんの不満があるのだ」といわれてしまった。いやほんとに自分でもやばいと思うのだけれど、あのころの私やばかった。いまも完全に抜け切れたわけではないけれど、「エゴサするな!」「読書メーターなんか見るな!」とさんざん叱られたので、読書メーターとブクログを見なくなった。それだけでかなり調子がいい。いやしかし、読者からの反応は作家にとっては華、なによりのご褒美である。まったく目にしないのはそれはそれでさびしいのでTwitterとインスタのエゴサだけは許してほしい。まあまあ食らうんだけどな。とくにインスタ。ついかっとなって返信しそうになるのだが、「それだけはやめろ」ときつくいわれているのでやらない。 釣りタイトルからいきなり愚痴をかましてすみません。文学賞の候補になったからってみんながみんな浮かれているわけじゃないとおわかりいただけたでしょうか。今回候補のおしらせをいただいたときは、うれしいという気持ちよりも安堵のほうが大きかった。前回お呼ばれしたのに今回お呼ばれしなかったらそりゃ落ち込むだろう。文学賞のおそろしさというものを身をもって実感しているところである。 放送映画批評家協会賞で最優秀主演女優賞を受賞したケイト・ブランシェットが、賞レースというものの形式自体が家父長制的だと批判していたけれど、いやまったくもってそのとおりだと思うし、賞を権威だとする感覚はいまの時代にはフィットしないのではないかと個人的には思う。 だけれども、そりゃケイト様はいいよ、もうアカデミー賞もらってるじゃないっすか、押しも押されもせぬ世界的な大女優じゃないですか、そりゃそういうことも言えちゃいますよねと正直思わないわけでもなかった。揺るがぬ足場に立ってこそようやく賞レース批判ができるようになるのであって、そのためにはまず賞をとらなくちゃいけないというこの矛盾! 本が売れないといわれてひさしいこの時代、どんな形であってもなにかの作品に光をあてる試みはありがたいものである。 デビュー20年目、 これまでに刊行した25作品、いくつか スマッシュヒットはあったけれどさして大きなヒットもなく、ほとんどが光を浴びないまま埋も