2026年6月10日

 10時台の新幹線を予約していたので、早めに家を出る。新幹線の改札を抜けてから予約の時間を確認したら、なんと30分以上も時間がある。いつもそう。せっかちなのと心配症なので早め早めに行動をし、待ちぼうけを食らう。これまでに駅のホームや空港のベンチでぼうっと待っていた時間をすべて合わせたら一週間ぶんぐらいあると思う。

 ホームにあがるとちょうど東京行きの「こだま」が停車しており、自由席が空いていそうだったのでえいやと飛び乗った。東京まで三時間、車内でゆっくり仕事すればいい――と思ったのもつかのま、本来予約していた「のぞみ」より東京駅到着が三十分もうしろにずれこむことが発覚して焦る。

 表参道の美容院を予約してあったので、その前にどこかでランチでもしようと思っていたのだ。しかし、そんな時間はとてもなさそう。しかたなく品川で降りて、駅の構内でさっと昼食をすますことに。

 東京駅より品川駅のほうがちいさくて落ち着く。東京駅は人も多く、なんだかみな殺伐としていて、ちょっと立ち止まろうものならあちこちから殺気やら舌打ちやらぶつかりやらねめつけやらが飛んできておそろしい。品川駅ではいまのところそんな目に遭ったことがないので、できれば品川駅で降りたいのだけど、出版社とかそれ関係の仕事だとあんまり利用する機会がない。

 品川駅で食べたうどんは、おそらくセントラルキッチンのものなのだろうが、ふつうにおいしかった。ほとんど立ち食いのような雰囲気のお店で、会社員らしき人たちがものの五分ほどでずるずるうどんを啜りあげ、さっと立ちあがって次々に会計を済ませていく。合理的で効率的、安価で素早い。そのうえに「なるべくおいしく」が乗っかってる。全部盛りじゃんと思いながらありがたくいただいた。旅人のための食事ってこういうものなんだろう。食事というよりエネルギーチャージというかんじだろうか。

 立ち食いでロスした時間を巻き返し、山手線で原宿までいく。せっかくだからとひさしぶりに竹下通りを歩いてみたら、日本人がほとんど見あたらず、はからずも海外旅行した気分になる。海外のどの街に行っても観光客しかいないような通りがあるけど、竹下通りもまさにそんな雰囲気。オリエンタリズムを刺激するような土産物屋が両脇に並び、東京名物「KAWAII」がてんこ盛りになっている。

 なかでもひときわ目を引いたのが、ペットカフェが集まった一角だった。犬、猫、豚、カピバラなど、モフモフたちと触れ合えるカフェがずらずらと並んでいる。うわー、なんでも商売になるんだなあ、資本主義もここまできたか……と正直ぎょっとしてしまった。これまで猫カフェや犬カフェを見かけてもなにも疑問に思ったことはなかったし、隙あらば自分も……などと思っていたのだが、ここにきてはじめてアニマルウェルフェアについて考えが及んだ。あそこまであからさまにされると、さすがにうっとなってしまう。


 表参道の美容院(さ)にはもうずいぶん長いこと通っている。十年ぐらい前にイラストレーターの(あ)さんや(よ)くん、文筆家の(み)さんやライターの(と)さん、妹(ま)と神田の味坊でごはんを食べていたときに、(あ)さんの髪型があまりにもすてきなので、妹(ま)が「どこの美容院いってるんですか?」と前のめりで訊ね、教えてもらったのが(さ)だった。

 いつもは同業者の集まりに妹(ま)を呼んだりしないのだが、妹(ま)と(よ)くんが顔なじみだったこともあって、中華だし人数は多いほうがいいよね、と召喚した。いまから思えばあのとき妹(ま)を呼んだわたし、ぐっじょぶ(って最近はもう言わないのか?と思ったが、言わないもなにも英語でふつうに使われていますね)。

 担当美容師「М」と出会った我々は、やっと運命の美容師にめぐりあえたと感激し、当時浜崎あゆみの自伝的小説「М」が話題になっていたこともあり、彼を「М」と呼んでいた。呼んでいたというかいまも呼んでいる。

 Мのすばらしさを語ろうとすれば、それこそ一冊書きおろせるかもしれない。タイトルはもちろん「М」である。

 技術があるのはもちろん、独自の理論を構築していて、すべてに理屈が通っている。私は素人なので、そのすごさをぜんぶ把握できてはいないのだが、私にもわかるように理屈を伝えてくれる、その言葉のチョイスでなんとなく伝わってくるものがある。ホットペッパーとかにあるテイスト一覧「ナチュラル」「フェミニン」「カジュアル」みたいなそういう表層的で一面的な雰囲気で顧客を見ているのではなく、本質をみさだめようとしているかんじがあって、私にしっくりぴったり照準があっている。あと「表参道の美容師」と聞いてだれもがうっすら想像するような気取ったかんじがまったくなく、どっちかっていうと岡山弁のヤカラみたいな雰囲気でむしろ安心できる。

 最近はずっと髪をピンクに染めていたのだが、あるとき、ピンクの髪をしていると、匿名性を失うということに気づいた。ピンクの髪でいると、どうしたってスーパーや図書館など、よく行く場所にいる人たちに「ピンクの人だ」と記憶されてしまうだろう。私自身は「どこにでもいる一般のおばさん」にうまく擬態できていると思っていたのだが、他人から言わせると「堅気じゃない」ように見えるらしいし――ってピンクの髪にしておいてなにが「うまく擬態」だってかんじですね。バカなんでしょうか。

 とまあそういうこともあって、いいかんじに町の景色に埋没しつつも、近くでよく見るとなんだかはっとして新鮮、みたいなことにしたいと相談し、いい塩梅のところに落ち着いた。これからもМとともに歩んでいきたいのだが、いつまでМが鋏を持ち続けてくれるのか、いまからすでに家族の一員のように心配している(Мは私の3~4下くらい)。


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