「流れる星をつかまえに」ができるまで2



このあいだTwitterのスペースで「流れる星をつかまえに」の成り立ちについてはだいたい話してしまったのだけど、こちらのブログでは「映画にまつわる連作を書こう!」と決めたところで終わっているので軽くその先の展開について書いておく。


私はシネフィルというほどではないが、評判になっている映画はちょこちょこ映画館に通って観るぐらいには映画が好きだ。中でも偏愛しているのが韓国映画とロマコメ&学園ラブコメで、映画にまつわる連作を書くにあたって、そのふたつはメインで取り扱いたいと思った。

中でも「子猫をお願い」は、忘れもしないパク・チャヌクの「オールドボーイ」の次に観た韓国映画で、その振り幅に驚かされると同時に、オールタイムベストに挙げてもいいくらい特別な映画である(どのように扱われているかはぜひ本作を読んでね。泣いちゃうよ)。

それと、「ムーンライト」がアカデミー賞を受賞したときに、きっといま世界中でこれを観て、救われたような気持ちになっている十代の同性愛者の子たちがたくさんいるにちがいないと思ったので、そのうちの一人である日本人の男の子について書きたいと思った。

結果的にいろんなマイノリティに属する人たちが登場する連作短編集になったわけだけれど、映画ってそもそもマイノリティを描くものだと思ってて(それでいったら小説もそうかもしれない)、だからまあ当然の帰結ってやつなんじゃないかな。

というか、だれだってひとつやふたつはマイノリティ属性を持っているわけで、物語でその人のパーソナルな部分を書こうとすると、どうしてもそこにフォーカスするしかないんじゃないかしら、といまふと思ったけど、それについてはもうちょっと考えてみるべきかもしれない。

※追記:考えてみたけどやっぱりそんなわけなかった。マイノリティ属性があるからってそれがその人のすべてであるわけじゃなくて、したがって物語の中で必ずしもそこにフォーカスする必要はないし、なんの意味もなくマイノリティが物語に登場したっていい。なんの意味もなくマジョリティが物語に出すぎなのよそもそも。考えなくてもわかることじゃんね。


何度も書いているが、ただ人物が重なるだけの、なんの戦略も工夫もない連作短編集を書くぐらいなら書かないほうがマシなので(それでめちゃおもしろいすごい作品を書ける人はいるとこにはいるだろうが私はそうではない)、なにかもうちょっとフックがほしいなと思って、「日本でプロムをやりたい女子高生」に全体をぐいぐい引っ張ってもらうことにした。

彼女たちが大暴れする最終話はほんとうにひさしぶりに信じられないほど書くのが楽しくて、毎日何時間でもパソコンの前に座っていても平気なほどだった。そのせいであっというまに書き終わってしまって、すごくさびしかったのをおぼえている。いまもどこかで彼女たちがなにかをやろうとしてわあきゃあ騒いでいる気がする。

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