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打ち合わせと連作小説

打ち合わせについて書くとかいっておきながらだいぶ間が開いてしまった。 私の場合、小説の種のようなものは大きいもの(長編とか連作とかそれだけで一冊にできるものという意味)だとつねに五つぐらい抱えていて、ちょっとずつ水をやりながら何年も時間をかけて醸成させて世に出すタイミングを待っている。自分的にその題材を書く準備や覚悟がととのったときに「さあいざ!」みたいなことは実はほとんどなくて、たいていは打ち合わせでタイミングが決まる。 作家によってはお題をもらわないと書けないという人もいるし、編集者によってはお題を持ってくる人もいるのだが、私の場合、基本的には自由にやらせてもらっていて、打ち合わせの際に、その編集者の好みや媒体の性格(文芸誌なのかネットなのか、お堅めの出版社なのかゆるめの出版社なのか)などを考慮して、手持ちのネタからいくつかはまりそうなものを持っていき、そこから選んでもらうというのがいちばん多い。 正直にいうと、「 マリー・アントワネットの日記」が決まったときなんか、もう半べそだった。いつかは書きたいと思ってちまちま資料を揃えたりはしていたけれど、まだなんの準備も覚悟もできていなかったし、大変なことになるのは目に見えていたからだ。「新潮nex文庫で出す」ということだけは先に決まっていて、nex 向けのネタで芳しいものが他になかったので、しぶしぶリストの中に入れておいたものの、見つからないといいなと内心思っていた。しかし、我ながら出色の企画だったので、当然編集者も猫まっしぐらだった。30代後半のまだ気力も体力も視力もあるうちに書いておいてよかったといまは思っている。 いまではすっかりスタイルが確立されているが、新人のころはもちろんそうではなかった。オリーブ少女でもないのになぜか「オリーブボーイについて書いてください」といわれて「オリーブ」という珍作小説を書いたこともあった。妹は私の著作の中でもこの珍作がいちばん好きだというが、どう考えても山内マリコか柚木麻子のところに持っていくべきお題だと思う。 前にもちらっと書いたが、私がデビューした00年代半ばごろは、新人作家のもとに新しい出版社から依頼がくるときは、「まず30枚から40枚ぐらいの短編を」という形が多かった。各社の文芸誌に顔見せのような形で短編を載せ、そこから次の打ち合わせで「では、これをもとに連作を」というパ

「女優の娘」ができるまで 3

 国際女性デーなのでなんか書こうかと思ったけど、「女優の娘」についてもう少しだけ。 あんまりうまくいっていない母と娘の物語をこれまでずっと書き続けてきたけど、わかりやすい解放や和解を書いたことは一度もなかった。そんなものはないと私自身が知っているからなのであるが、なぜかこの世は「毒親ポルノ(@ アルテイシア さん)」であふれていて、「どんなにひどい親でも親は親」「親子なんだから話し合えばわかりあえるはず」「血は水よりも濃い」というメッセージをしつこいぐらい繰り出してくる。 親とうまくいっている人たちにとっては、毒親をエンタメ化して消費するムーブにすぎないのだろうが、親と折り合いの悪いまま大人になってしまった人間にとってそれは、親と和解できない、歩み寄ろうともしないこちらが悪いのではないかと自分自身を苛んでしまうのに十分な呪いであり脅迫だ。そんなものは目に入れなければいいのだろうし、「くだらない」と一笑に付して取り合わないことも可能だが、これだけ数が多いとなにかの拍子にふと目に入る機会も多くてさすがにうんざりする。いくら効き目のないパンチでもしつこく繰り出され続ければ腹にくる。なによりそういった「毒親ポルノ」を鵜吞みにした「善良な人たち」がよかれと思ってかけてくる言葉「お母さんもつらかったんだよ」「子どもを産めば親の気持ちがわかるようになるはずだよ」等々が、まるで二次加害のように私たちを苛むのだった。親を一人の人間として理解し尊重することは大事だしそれが大人になるということかもしれないが、だからといって親にされたことを許せるかどうかはその人自身が決めることだ。許さなくていいと私は思う。許さずに、ずっとおぼえていればいい。 「女優の娘」は毒親と呼んで差し支えのない母親が死ぬところから物語がはじまる。親の死後、親がどう生きたかをたどる子どもの話――とここまで書くと、おやおや毒親ポルノでよく見るパターンですね、と身構える人も多いだろうがどうか安心してほしい。ラスト近くで隠された母の秘密が明かされることもないし、娘に宛てて母が書き残した手紙がひょっこり出てきたりもしない。それを受けて主人公が泣きながら咆哮し、母をゆるし、母を受け入れることもない。そういう場面がラストにあったほうが読者はわかりやすくカタルシスを得られて「面白い」のだろうが、その選択は取らなかった。そこが私のエン

「女優の娘」ができるまで 2

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発売までに"「女優の娘」ができるまで"について書いておきたかったのに、あっというまにファッキンひなまつりになってしまった。この国でいま女性が置かれている状況にぶちキレながら書いた小説がよりによって3月3日に発売だなんてなんと皮肉なことだろう。 娘の視点から見た母親(ポルノ女優)を書くと決めたとき、娘もまた自動的に女優するつもりだった。女優といっても、「本格派」「実力派」「性格俳優」「女を売りにしていない」といわれるようなタイプで、舞台を中心に活躍している。「女優」と呼ばれることを好まず「俳優」と自称している。年齢は三十代後半で子持ちのシングルマザー。 ……なんでこんなに詳細な設定が出てくるかというと、連載の第一回目を書いたからである。そしてまるまるボツになったからである。 「いやなんか筆が重だるいし、この設定あんた向いてないから、いっそのこと娘をアイドルにしちゃったほうがよくないっすか?」 とそんな口調ではもちろんなかったが、おそるおそるといったかんじに担当氏に提案され、「えっ、無理」って最初は思ったのに、たしかにそっちのほうが向いてたのか、するする書けてしまった。パシっとあざやかにキマってしまったかんじがあった。なんという慧眼だろう。担当氏すごい。 20代半ばのアイドルの女の子が母親の死をきっかけに母親を知る旅をする。なんだか冒険小説のようだと思いながら書いていたが、文庫版の帯には、 「アイドルの"リアル”を鮮やかに描き出した、傑作青春小説!」 とある。 この小説を青春小説と言い切ってしまう、その剛腕と潔さにびっくりしてしまったが、しかしよくよく考えてみたらこれはまぎれもない青春小説なのだった。母親のことを知ることで、主人公のいとは自分自身を知ることになる。これが青春小説でなくてなんだというのだろう。 解説はあやちょこと和田彩花さんにお願いした。 この小説の解説を書いてもらうのに、おそらくこの世界でいちばんふさわしい人なんじゃないかと思う。いとがアイドルをしているのは、承認欲求を満たすためというより、アイドルの仕事に楽しさを見出しているからだという指摘には、当事者ならではの視点だとハッとさせられた。文末で読者に向かって和田さんが投げた問いかけは、そのままどう生きるかという問いでもある。 どうか、解説と合わせて読んでもらえたらと思う。