「女優の娘」ができるまで 3

 国際女性デーなのでなんか書こうかと思ったけど、「女優の娘」についてもう少しだけ。

あんまりうまくいっていない母と娘の物語をこれまでずっと書き続けてきたけど、わかりやすい解放や和解を書いたことは一度もなかった。そんなものはないと私自身が知っているからなのであるが、なぜかこの世は「毒親ポルノ(@アルテイシアさん)」であふれていて、「どんなにひどい親でも親は親」「親子なんだから話し合えばわかりあえるはず」「血は水よりも濃い」というメッセージをしつこいぐらい繰り出してくる。

親とうまくいっている人たちにとっては、毒親をエンタメ化して消費するムーブにすぎないのだろうが、親と折り合いの悪いまま大人になってしまった人間にとってそれは、親と和解できない、歩み寄ろうともしないこちらが悪いのではないかと自分自身を苛んでしまうのに十分な呪いであり脅迫だ。そんなものは目に入れなければいいのだろうし、「くだらない」と一笑に付して取り合わないことも可能だが、これだけ数が多いとなにかの拍子にふと目に入る機会も多くてさすがにうんざりする。いくら効き目のないパンチでもしつこく繰り出され続ければ腹にくる。なによりそういった「毒親ポルノ」を鵜吞みにした「善良な人たち」がよかれと思ってかけてくる言葉「お母さんもつらかったんだよ」「子どもを産めば親の気持ちがわかるようになるはずだよ」等々が、まるで二次加害のように私たちを苛むのだった。親を一人の人間として理解し尊重することは大事だしそれが大人になるということかもしれないが、だからといって親にされたことを許せるかどうかはその人自身が決めることだ。許さなくていいと私は思う。許さずに、ずっとおぼえていればいい。

「女優の娘」は毒親と呼んで差し支えのない母親が死ぬところから物語がはじまる。親の死後、親がどう生きたかをたどる子どもの話――とここまで書くと、おやおや毒親ポルノでよく見るパターンですね、と身構える人も多いだろうがどうか安心してほしい。ラスト近くで隠された母の秘密が明かされることもないし、娘に宛てて母が書き残した手紙がひょっこり出てきたりもしない。それを受けて主人公が泣きながら咆哮し、母をゆるし、母を受け入れることもない。そういう場面がラストにあったほうが読者はわかりやすくカタルシスを得られて「面白い」のだろうが、その選択は取らなかった。そこが私のエンターテイメント作家としての敗北であり限界だと感じているが、作家としての矜持であり誠意でもある。

絶対数は少なくとも親子の断絶の物語にこそ救われる人がいるのもたしかで、私はこれからもしゅくしゅくと断絶の物語を書き続けていくだろう。この世でいちばん嫌いな言葉は「血縁」。




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