どうしても直木賞が欲しい

 なんと一年以上もブログを放置していた。昨年は新刊が出なかったのと(あ、文庫は出たわそういえば)、あまりに忙しすぎて金にならない文章を書いている暇がなかったのである。

いまだって暇なわけではないのだけれど、この年末年始にいろいろがんばった&スケジュールの整理をしてちょっと余裕がある状態なので、こうしてひさしぶりにブログを書こうとしている。

というのも、ここ数日、村山由佳さんの新刊『PRIZE―プライズ―』(以下「プライズ」とする)を夢中で読んでいたのである。


「どうしても、直木賞が欲しい」

賞(prize)という栄誉を獰猛に追い求める作家・天羽カインの破壊的な情熱が迸る衝撃作!

天羽カインは憤怒の炎に燃えていた。本を出せばベストセラー、映像化作品多数、本屋大賞にも輝いた。それなのに、直木賞が獲れない。文壇から正当に評価されない。私の、何が駄目なの?

……何としてでも認めさせてやる。全身全霊を注ぎ込んで、絶対に。


この概要だけ読んで、ひー!こわい!とならない出版関係者なんているんだろうか。自分には関係ないことだと涼しい顔をしていられる人がいたとしたらその人は嘘つきか、殿上人か、あるいはよほど自分に自信があるかのどれかにちがいない。

文学賞がほしい。認められたい。褒められたい。売れたい。

その他にも、うまくなりたいとか、面白い小説が書きたいとか、できれば一生書き続けたいとか、小説家が抱く欲望にはさまざまあるけれど、外からやってくるもの=承認を求める気持ちがひときわ強いと、めちゃくちゃしんどいことになる……のは小説家でなくともなんとなく想像がつくだろう。

承認欲求というのはだれしもが持っているものだし、それが原動力となってがんばれることもあるだろうから、一概に悪いものだとは言えないと思うのだけど、小説家のような「売れ」「認め」「褒め」が目に見える形でおもてに出る職業ってそういえば他にあんまりない(あるとしても芸能人とか漫画家とか?)。小説家として一冊でも本を出すと、いやおうなく俎上にのせられ、ほかの作家と比較されたり、自分でもつい比較したりしてしまい、自動的に承認欲求がふくらんでいくようなシステムになっている。『AKIRA』で巨大化していく鉄雄に金田が手を焼いていたけれど、小説家の中には金田と鉄雄が共存していると考えてもらっていい。

著者の村山さんご自身が「自分の中の承認欲求を隠しに隠してきた」と語っているとおり、承認欲求を剥き出しにするのははしたないこと、みっともないことという規範がなんとなくあって(その規範はいつ、どのようにして醸成されたものなのだろう?)、私もそれを内面化しているタイプの人間である。だから文学賞なんて興味ないという顔をし、二十年近くずっと売れない作家を続けてきても「私はニッチな作家だから」と冗談っぽく笑い飛ばしてきた。文学賞に興味がないというか単に向こうから相手にされていないだけ、ニッチな作風というより単に売れるだけの訴求力や魅力のある作品を書いてこなかっただけにもかかわらず、そんなふうに予防線を張り、承認欲求をひた隠しにしてきたのである。そうしていつしか自分自身まで騙せるようになっていた。

しかし、「プライズ」の主人公である天羽カインはそれを隠そうとはしない(いちおう隠そうとしてはいるみたいだが、周囲にはだだ漏れ)。「初版部数が少ないんじゃないか」「私のことをなめてるんじゃないか」「今度こそ直木賞とれるよね?」と編集者に詰め寄る天羽カインの姿に、最初のうちは嫌悪感をおぼえていたけれど、同時にこの人は自分をあきらめていないのだな、という憧憬も抱いた。自分をあきらめず、高く見積もっているからこそ、こんなふうにまっすぐと欲求を吐き出せるのではないかって(だからといって天羽カインが編集者に対して行うパワハラは断じて許されることではないが)。

私なんかもうほとんど自分をあきらめ低く見積もっているから、編集者に嫌われないようにへこへこと愛想よくし、部数や待遇に不満があったとしても私程度の作家にはこれぐらいがふさわしいのだと勝手に自己解決して呑み込んでしまうし(いやでも売上を出していないのにいまだに私の本を出し続けてくれる各出版社には頭があがらないようなとこもほんとにあるから)、文学賞なんて獲れなくてあたりまえ、候補になるだけでもありがてえと思うようにしていた(……のだが、こう落選続きだとだんだんむきになってきて、くれよ~いいかげん一個ぐらいなんでもいいからくれよ~なんでくれないんだよ~もうさっさともらってこのスゴロクから上がりてえよ~な気持ちになってくるから文学賞というのはほんとうに厄介な厄災のようなものである)(村山由佳さんが選考委員をつとめる島清恋愛文学賞はありがたくいただきましためっちゃうれしかったですでももっとほしいです)。


ところで、天羽カインはいったいだれをモデルにしているのかと、読みながらゴシップ的な好奇心が刺激された読者は多いだろうが、頭に思い浮かんだ名前、おそらくそれはすべて正解であり、間違いであるのだと思う。そういうふうに読んでしまっている時点で作者の術中に陥っているというか、小説家であるなしにかかわらず、多くの人が天羽カインの抱える孤独や欲求と無関係ではいられないはずだ。読者が天羽カインに向ける鋭いまなざしはすべて返す刀となって自分にかえってくる。

「売れ」も「認め」も「褒め」も外からやってくるもので、自分でコントロールすることは不可能だからこそ、みんな振りまわされて苦しんでいる。できることなら他人に自分の評価をあずけるべきではないと思うが、ほんとうの意味でそうできる人がいったいどれだけいるというのだろう。天羽カインは私であり、あなたである。だれも天羽カインを愚かだと笑えはしない。天羽カインという名の欲望のキメラを生み出した作家・村山由佳の胆力におののきながら、一気に駆け抜けた一冊だった。

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