「あわのまにまに」ができるまで その2~タイトルの意味
今回タイトルについて必ずといっていいほど訊かれるので、一度考えをまとめたくてブログに書いておく。
私の見たところ、「あわのまにまに」という言葉の意味そのものを知りたがる人もいれば、タイトルの意図を知りたがる人もいて、そのどちらもいれば、その中間の人もいる。つまりいいタイトルなんじゃないかと思う。
まず「まにまに」という言葉が先にあった。辞書をひくと出てくるのは、おもに古語の「随に」で「①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。②…とともに。▽物事が進むにつれての意」とある。
「波のまにまに」とか「神のまにまに」とか詠われていたりする記憶があったけど、なにかこう自分の意志とは関係なく流されていくかんじ、どうしうようもなさ、途方もなさ、取り返しのつかなさ、そうするしかないからそうしている、そんな印象の言葉だった。
かといってその渦中にいる人が、なんも考えないで漂っているだけなのか、というとそうでもないんじゃないか、無念だったり悔しさだったり怒りだったり哀しみだったりそりゃいろんな感情があるだろう。そういう「間に間に」見え隠れするもの、という意味もある。それからこの小説の大きなテーマが時間であり、十年刻みで時間をさかのぼっていく、その章と章の「間に間に」見え隠れするものという意味でもある。
ちょうどこのブログの最初の記事で、こんなことを書いていた。
ちょうどいま書いている「あわのまにまに」という連作小説で、長い時間の中で忘れ去られてしまったもの、隠されて見えないようにされてしまったもの、記憶の奥深くに追いやってしまったものなどが、ふいにぷかりと浮かびあがってきてすぐさま消えていく、その儚さみたいなものを書きたくてやっていて(うまくできているかはさておき)、「あわのまにまに」のおそらく作中には使われないであろうメモのなかに「あわのような想念」と書かれているのだが、創作についての「あわのような想念」もちゃんと糸でつなぎ留めておきたいなと思ったのだった。
自分の作品を説明するときにほかの作品を引き合いに出すことにまったくためらいのないのもどうかと思うが、この小説を書いているときに頭にあったのはアガサ・クリスティの「春にして君を離れ」だ。長く生きていると(長く生きていなくても?)、幼い日に見たあの光景、幼い日じゃなくてもなんか妙に心に引っかかっていたことの意味が、ふいにわかってしまう瞬間ってありますよね。親の知らない一面とか、親戚同士のいさかいとか、もしかしてあの人とあの人には確執があって、あの人とあの人には昔なにかがあって……? というような。ものすごく卑近な例を出してしまったけど、でもつまりはそういうことを書きたかったんだと思う。一度わかってしまうともう戻れなくなる。わざと見ないふりして蓋をしたりすることもあるだろう。処し方はそのときどきでいろいろだろうけど、だれしも一度は経験したことがあるんじゃないかな。
時間の流れはどうすることもできないものだし、過去あったことは変えられない。過去の選択が未来にどんな影響を与えたのか知りながら「未来人」(読者)が時間をさかのぼっていくとき、どんな感情になるのか。意図していたことがうまくいっていたらうれしい。
「あわ」というのは、まず海のイメージがあって出てきた言葉だった。一瞬の儚さとか、浮かんでは消えていく個人の感情や記憶や想念の意味であわとしたけれど、小説が書きあがってからみると、時代ごとに浮かんでは消えていく風俗だったり文化だったり価値観をあらわしているとも読めるようになっている。やっぱりすごくいいタイトルなんじゃないかなと思う。あの時はあの人のことめっちゃ好きだったのに十年経ったら気持ちに変化が起こってたりする。そういうのも儚くてせつなくてあわのまにまにやねと思う。
デビュー作が「しゃぼん」で、「東京ネバーランド」を文庫時に「うたかたの彼」に改題したりしているので、とにかくあわあわしたものが好きなんだということだけはわかった。ビールも好き、シャンパンも好き、微発砲のワインや日本酒はとりわけ大好き。まちがいない。
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